最近見た映画で、年老いた家具職人に主人公がこう言った。
「そんなタンスの裏までキレイに仕上げても、見るのは引っ越し業者だけだろうに」
すると家具職人の返事はこうだ。
「ストラディバリウスの背面にベニヤを貼るかい?」
自分の仕事に対する誇りを感じるセリフだ。
誰が見なくても、誰が知らなくてもそんな事は関係ない。いい仕事をするだけと。
誰でもいい、認めて欲しがる人間のサガ
人間は社会的な生き物であるがゆえに、承認欲求が本能的にある。
集団の中で誰かに自分の価値を認められるということは、より生き延びられることに繋がっていたからだ。認められる、称賛される事で報酬系の脳内ホルモンのシャワーを浴び、もっともっと欲しくなる。
そしてそれが当たり前になると、そうでないともうモチベーションが保てない。
頂点に立った人間が、次第に甘言しか言わない取り巻きにダメにされてしまうのはよくあることだ。
認められるための努力は出来るが、一生懸命やっても誰も認めてくれないとしたらどうだろう。
それでも自分の信じた道を突き進んだ芸術家や革命家はいたわけだが、それはレアケースだ。
そしてもし悪の誘惑に負けても誰にも知られず責められもしないとしたら?
人間の心は弱い。一生懸命働かず、人知れずの善行は行わず、こっそりと悪事を働くのか?
それを防ぐ為に宗教は存在するのだろう。善も悪も全ては神サマはお見通しだ。
神サマに知ってもらえると信じることで(不完全ながらも)承認欲求を満たし、いつかこの善行の報いが貰える(死後天国に行けるとか)期待をもつ。
日本でも仏教神道入り混じってはきたが、「お天道様が見ている」と言われてきた。
また、「天知る、地知る、我知る、人知る」は中国の故事からきている。
とくに日本人は「後ろ指を指されること」を異常に怖がる国民だ。ある意味行動の指標と言っていい。
何かをする時、人に非難されないかで決めたりする。
最近よくあるSMS等によるバッシングで自殺するケースなどは『他者の評価=自分の価値』でおきるのだろう。
とは言え「人が何と言おうと我が道を行く」ばかりではこの社会では軋轢を生んでしまうよね。
ワンマン、偏屈、我儘とも紙一重。
要はしっかりした自分基準(言い換えれば良心?)を持つことだが、それが簡単なら苦労は無い。
分からないから人は昔から神様(正確には昔の賢人たちが書いたであろう聖典)に頼ってきたのだ。
私の唯我独尊論?
実は私は自分でもかなりの「我が道論者」だと思う。
さかのぼれば、20才位の時は(人並に)自分の存在意義に悩み落ち込んだ。
何かにつけ母が私より兄を優先していた子供時代のトラウマがあったことも原因の一つだっただろう。
それは母が亡くなった後、たまたま看護学校に講義に来られたカウンセラーによって明らかになった。
カウンセラーの誘導によって私は「母に愛されてなかった」と泣き出したのだ。
そのカウンセラーは私を母にして私を産ませ、どんな気持ちだったかを体験させて救ってくれた。
その後、この言葉に出会う。「野に咲く花のように生きれば良い」
野に咲く花は何の為に咲いているかなんて考えていない。ただ咲いているだけである。
それは自然の一部だから。
ヒトも自然の一部である。生きる意味などなくても、あるがままにただ生きていればそれで良いのだ。
たしかそういう意味だったと理解している。
何の為に生まれてきて、何の為に生きているか。人は自分の存在意義をどこかに見出そうとする。
しかし、私が出した答えは『それは有っても無くてもいい』
有ることが、または無いことが自分の支えになるならどちらを選択しても良いのだと思う。
次に選択を迫られたのは「誰を信じるか」である。
30才代はじめの頃、当時職場では上司のパワハラでストレスによるものであろう同僚の健康被害が出ていた。
前任者の同僚のある者は突発性難聴になり、ある者は円形脱毛症になった。
産休明けでそこに配属された私も例にもれず、その洗礼を受けることになる。ただでさえ経験したことのない部署で右往左往して、上司の理不尽な叱責が飛ぶ。さすがにへこむ。
そこで私はそこで何年も働いているにも関わらず健康被害などミジンも感じさせない先輩に、どうしてかを尋ねてみた。
すると「だって叱られてもこっちは悪くないもの」という答え。
目からウロコが落ちた思い。そうか、自分に非が無ければ堂々としとけばいいんだ!
叱られて辛いのは「叱られてダメな自分と思うから。善悪の判断基準を相手に任せているからだわ!」
それからは罵倒されてもコッソリ「でも、私は悪くないもん」という魔法の言葉をつぶやいた。
おかげでその後他の部署に変わるまで健康被害は出ず、周りに「強いね」と言われた。
この方法は心を守る事はできるが欠点が2つある。
1つは、自分の善悪の基準がしっかりしてなければ、タダの自己正当化だということ。
そこで自分が信じられるかという問題となる。
何が正しくて、何が間違ってるかなんてハッキリとした答えなんかない。
私の場合その時々の一番マシだと思う道を選ぶだけ。その基準は次の通り。
1.現在または将来に他人に害を及ぼすことはしなかったか。
2.現在または将来に他人に益する事を選んだか。
3.自分の人生の方向性と1・2とのバランスがとれていたか。
1において、社会生活で完全に他人に迷惑をかけずに生きることなど不可能だが最小限にすべきである。だが、2や3と相反することがある。Aさんには利益だがBさんには不利益だとか、自分へのストレスが大きすぎる場合とか。
その線引きを決めるのが3の自分の人生の方向性だ。
自分はどんな人間になりたいか。どんな生き方をしたいか。
そしてその事でお天道様(自分の良心)に恥じない人間でいられるか。
そことバランスを取らないと自分が無くなってしまうと感じるからだ。
たとえば敬虔な宗教家やボランティア活動で一見自己犠牲ばかりに見える人も、3とのバランスがとれているからこそ出来るのだろうと思う。
昔、若い時に「ベストフレンド」という本を持っていた。
一人暮らしで家族も側にいず、恋人もおらず、孤独に押しつぶされそうになった時に読んだ本だ。
大切な人を失くして悲嘆にくれている登場人物が「あなたにはまだ自分というベストフレンドがいるではないですか」と言われるのだ。自分こそが最良の理解者で常に側にいる親友である、と。
そして孤独こそが人を強くし、成長させるのだと。
そうは言っても若い時は孤独は辛い。だがこの言葉はトシを経る毎にじわじわと沁みてくる。
自分を守り一番大切に出来るのは自分。
そういう意味では私は「我が道論者」というより「唯我独尊論者」なのかも。
もう一つの欠点は、本当に自分が失敗した時の落ち込みが半端ないという事。
自分が一番分かってるだけに‥。
私は、自分の人生の方向性を保つのに必要なのは読書や映画などで賢人の生き方を学び続けることが大事だと考えている。それは偉人といわれる人々だけでなく、冒頭であげた家具職人の言葉からでも得るものがある。
そして今はありあまる情報で世の中は溢れていて私達は惑わされやすいのも事実。
多くの情報から何が正しいのかを考えるのを止めない事、誰かの意見や情報を鵜呑みにして感情的に行動しないことも大切だ。
「人は渡り鳥のように羽ばたくのを止めてはいけない。止めたら落ちていくだけだ」
私の座右の銘である。(出来ているかは聞かないで)
それではまたね。ごめんなさいませ~。


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