トシをとると、最近の事は覚えていないのに昔の事はよく覚えているという。
まあ、昔の事といっても断片的で、繰り返し思い出していたから忘れずにいただけなのだろうが。
昔からの知人や同年代の友人と「昔はああだった、こうだった」と話すのはどうしてこんなに楽しいのか。たぶんその頃の悩みや辛さが懐かしい思い出になり(もしくは忘れて)今は痛みを感じずに楽しかったと変換できるからだろう。これは人間の素晴らしい能力である。
ご長寿で有名だった金さん銀さんの、これまた長生きした銀さんの娘の4姉妹が毎日のように集まっては、同じ思い出話を飽きずに繰り返し喋り笑い合っていたという。
幸せの共有。それが長生きの秘訣かもしれない。
子供の頃は困ったちゃんだった?
私の最も古い記憶は『保育園脱走事件』である。
3~4歳の頃だったか。当時両親は共働きで私は保育園に預けられていた。
ある日私は猛烈に腹を立て「こんなとこ、出て行ってやる」と保育園から勝手に一人で帰ったのだ。おそらく昼食準備で大人たちは忙しかったのに、構ってもらえなかったからではないかと思う。なぜか、恨みがましく厨房の中をにらんでいたことだけクッキリ覚えているのだ。
保育園に預けられているのだから、家に帰ったところで誰かがいる訳でもなく、家にも入れない。幸いお隣の人が気が付いてくれ、そこで過ごしていた。保育園ではさぞかし大騒ぎになっただろう。お隣さんも母に連絡してくれたらしく、母がほどなく迎えにきた(仕事を早退して?)
酷く叱られた記憶はないが、2度としなかったのは一応反省したからと思われる。
人騒がせな失踪事件はもう一回やっている。小学校3年位の時だ。
友人宅に遊びに行った私は大家族のその家庭がいたく気に入り「晩御飯、食べていく?」という誘いに一も二もなくのってしまう。そしてのほほんとお風呂まで入っていた。
そこの家人が、私が家に連絡を入れてないと知ったのは夜8時過ぎ。あわてて電話した。
その頃うちは大騒ぎで、今にも警察に連絡するところだったという。(当然よね~、、)
これはしっかり叱られた。
そもそも私は自分の家庭があまり好きでなかったらしい。
母は働いていて忙しく、帰ってきては家事をするので精一杯。
父は営業職で帰宅はいつも寝た後だったし、3つ上の兄は横暴だ。
夕食時間になっても帰ってない私はよく締め出された。そこでも記憶に強く残っているのは、締め出されて兄と母が美味しそうに夕飯を食べているのを窓から恨みがましく見ている私。
何度締め出されても意地をはって暗い公園で遊んでいる私を迎えに来ざるをえない母は、どうやら「北風政策」から「太陽政策」と変換したらしい。
私をおだてて夕食の手伝いを『お願い』した。これは功を奏した。
それでもすぐ調子にのる私が何もやらかさないはずがない。
当時やっとテレビは一家に一台になり、私はしょっ中CMソングを口にしていた。
その中で洗濯洗剤のCMで若い主婦がスカートをひるがえして「白さと香りの、ニュウビ-ィズゥ!」と歌うのがお気に入りで、母から「これ運んでね」を渡された山盛りのポテトサラダの大皿を両手にささげもったまま、その歌を歌いながらクルリと一回転したのだった。
その皿の上のポテトサラダが遠心力でどうなったか、想像してほしい。
誰でも大なり小なり何かやらかしてるよね?私だけじゃないはず‥。
あまり無い?いや、忘れただけだって。
特に幸せな食の思い出
母は栄養士の資格を持ち、料理好きであった。(私はその影響を多分に受けている‥はず)
休みの日にはテンピを出してきて、パンやパウンドケーキも焼いた。
テンピとはオーブンがまだ高価だった時代に、コンロに置いて使う箱型簡易オーブンである。
これが子供心にしてあまり美味しくなかった。やはり企業の市販品には味では負ける。(子供って無意識に権威主義なのよね。プリンもお湯でといて固めて作るやたら甘い○○○プリンが好きで、卵と牛乳で母が作ったプリンは不味いと思った)
美味しくないが故にあまり私の興味を引かず、料理の腕はなかなか上がらなかった。
テンピの扱いは子供には危険ということもあったが。
その後もミートボールを醤油100%で煮たり(佃煮か)、肉よりパン粉の多いハンバーグ(それはもはやハンバーグではない)を作り、母をあきれさせた。
何かを作って(料理して)誰かに食べさせる、または誰かに食べさせてもらうという行為は後々の幸せの記憶の共有だ。たとえそれがあまり美味しくなかったとしても、思い出は十分美味しい。
母は早逝してもう一緒に語れないが、母に食べさせてもらった数々のご飯、一緒に作った料理は私がそれを作る度に幸せな思い出となって甦る。特に餃子は、兄が食べ盛りの時は100個位母と二人でせっせと包んだものだ。
私の好物はクリームコロッケだったが、手間がかかるのでたまにしか作ってもらえなかった。
当然だ。ホワイトソースを作り、炒めた具材と合わせ一回冷凍させる。半解凍状態でしか扱えないからだ。コロッケの大きさにカットしたら小麦粉、卵、パン粉を一つ一つつけて揚げていく。
ワクワクしながらその工程を横で見ていたのを覚えている。
揚げるのも難しい。油の温度が適切でないと「外は焦げて中は冷たい」だの「衣が爆発してホワイトソース流出」だのになるのだ。母は上手だった。
結局、私はこんな面倒なものをまだ一度も作ったことは無い。オトナになってダイエットを意識しだしては尚更である。クリームコロッケのカロリーは、カツ丼がキングだとしたらクイーン級だ。
痩せたいなら絶対口にしてはならないものと思っていた。(今は違うけど)
だが私にとってこの特別な料理は、冷食で済ましてよいものではないのである。
いつか、ちゃんとしたレストランで冷凍食品でないクリームコロッケを食べよう。その幸せを誰かと分かち合いながら。
我が家は経済上の理由から、「寿司以外の高額食品は手作り」だ。
代表的なものはローストビーフと誕生日ケーキ。
これまた経済上の理由でウチの息子達は牛肉は赤くて硬いもの、と思って育ってきた(霜降りなどはこの世に存在しないのだ)ローストビーフもプロの研いだナイフかスライサーでないとあんなにキレイに薄くはならない。息子達は世間を知るまでは「ローストビーフは硬いのでよく噛んで食べるもの」だった。(肉だから喜んで食べていたけどね)
誕生日とクリスマスには一応ケーキを作った。余裕がある時はスポンジ台から焼いたが、忙しいときは台は買った。(やっぱ市販のは柔らかいよね)一番コストがかかるのが、生クリームで(1パックでは足りない)次はフルーツ。それでも台を買わなければ1000円位でできる。ケーキ屋さんのは4000円近くする。
当然誕生日だからといって外食はしない。
ほどんど母親の手作りで育つというこの贅沢なのか可哀相なのかわからないケチケチ教育の甲斐があって、息子達二人は「もったいない」からタバコも晩酌もしない男に育ってくれた。(酒が飲めないわけじゃないよ?)
さすがに今はローストビーフやケーキもプロの作ったものを選びそうだが、後々懐かしく母の作った料理を思い出してもらえたら、と思っている。
それではまたね。ごめんなさいませ~。


コメント